上原浩治が今季で引退へ。東海大仰星で控え、浪人後に大阪体育大学へ

上原浩治が今季で引退へ。東海大仰星で控え、浪人後に大阪体育大学へ

米大リーグ・カブスからFAとなっている上原浩治投手(42)が20日、今季限りで引退する可能性を示唆した。

イベント中に自身の去就に触れ、「今年契約があったら、ほぼ90%以上の確率で辞めるつもりです」と語った。

上原浩治は、大阪の東海大仰星では控え投手。バイトをしながら浪人し、大阪体育大学へ進学。

ヒーローからの伝言 上原浩治さん

2018年1月15日03時00分
朝日新聞

 中学生までは団地の仲間でやっているような野球チーム、もちろん軟式です。高校は、野球が強くて家から通えた東海大仰星に進みました。

 上下関係がとても厳しくて、野球をやめようと思ったこともありましたが、「野球が好き」という気持ちだけで耐えました。当時の僕は全く無名で、甲子園を目指していたわけではありませんでした。

 もともと投手だったこともあり、「投手をやれ」といわれていたけど、投手だけ練習が別メニューだったのと、たくさんランニングするのが嫌で断りました。しつこく言われたので、最後はやろうかなと。控えでしたけど。

 3年の春から練習試合で登板するようになり、「投げられた! 試合ができた!」って。それでもレギュラーではなかったし、高校野球に対する思い入れはあんまりないんですよね。

 同級生には建山(義紀さん、元レンジャーズ)がいて、すげーなと思っていました。メンバーも上手で「甲子園行けんちゃうか」って。勝ってほしいと思っていました。

 体育教師を目指して大阪体育大を受験したんですが、失敗して浪人しました。朝から夕方まで予備校通い。大学で野球をするつもりだったので、体作りと気分転換を兼ねてジムにも通いました。その費用を稼ぐために道路工事や引っ越しのバイトをしました。

 本当に苦しかった。野球を断っていたし、また野球ができる保証もない。プロ入り後、けがで野球ができないこともありましたけど、そのときに比べれば、治せばまたできる。やる場所がある。そう思えてつらくないんです。

 この1年間が自分の転機。「野球をできることが当たり前だと思っているエリートには負けたくない」という反骨心が芽生えました。大学に入ってからも、東京の有名大学の選手が、支給された用具を平気でゴミ箱に捨てているのを見てさらに強く思いました。

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 甲子園へは、東海大系列の高校の応援に行ったくらい。今思うのは、甲子園は高校生を勘違いさせる場所だと思います。あんだけすごい観客の中でやって、インタビューされて、勘違いするやつがいっぱいいるじゃないですか。あくまで一度も出ていない人間のねたみですよ。裏を返せば、すっげーうらやましい。幸せなことですよ。

 100回の歴史の中で、対戦できるとすればKK時代のPL学園と対戦してみたかった。大阪大会でコールド負けでしょうけどね。これから先、あのチームを超える高校が出てくるとは思えないです。

 高校ではなかなか試合に出られなかった。同じ境遇にいる球児には、自分だけ違う方向を向かないように頑張ってほしいと言いたい。補欠だから、ベンチだからいいや、ということではなく、レギュラーと同じ方向を向くことが必要ですよね。チームが勝ちたいと思っているのであれば、そう思って、練習に取り組んでほしいです。(聞き手・渡辺元史)

 ■自ら考え 基本練習も手を抜かず

 当時の監督だった西豊重総監督の話 投手としては、建山の影に隠れた目立たない生徒でした。ただ、基本練習のキャッチボールも手を抜かず、一つひとつ課題を持ち、自ら考えながら取り組んでいました。アドバイスも素直に聞くことができた。野手が打撃投手を探した時、上原はきれいなフォームでテンポよく投げるので、先輩から人気でした。そこで学んだのか、実戦では打者との駆け引きが上手でしたね。ここまでの実績は、一生懸命野球と向き合ってきた証し。最後まで大リーグで頑張り抜いてほしいですね。

     ◇

 うえはら・こうじ 1975年、寝屋川市出身。3年夏の第75回の大阪大会では控え投手としてベンチ入り。準々決勝で敗退した。95年、1年浪人して大阪体育大学に入学。98年のドラフトで1位指名され巨人入団。翌年、20勝4敗で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、沢村賞、新人王を獲得した。2009年、米大リーグへ。オリオールズやレンジャーズなどで活躍し、13年にはレッドソックスの一員としてワールドシリーズで優勝し、胴上げ投手になった。

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