あの夏、帝京高校の石橋貴明とビートたけしが神宮球場にいた

あの夏、帝京高校の石橋貴明とビートたけしが神宮球場にいた

1978年夏、神宮球場で行われた高校野球・東東京大会の決勝戦。

決勝戦のカードは、早稲田実業と帝京高校。

この試合、当時・帝京高校の野球部員だった「とんねるず」の石橋貴明がスタンドに。

実は、この試合、ビートたけしも神宮球場に来ていた。

ビートたけしは、「漫才がイヤになり辞めようと思って事務所に“風邪ひいた”とうそをついて仕事をサボり、この試合を見に行った」と語っている。

この試合、ビートたけしの記憶に刻まれた選手がいた。

早稲田実業の阿部淳一(当時1年生)だ。

早稲田実業の阿部淳一

早稲田実業と帝京高校の決勝戦で、早稲田実業は、4点リードされた7回に当時1年だった阿部淳一が代打で登場し、3ランホームランを放った。

阿部は“王貞治2世”と呼ばれた。

しかし、その後、高1の冬に阿部さんは交通事故で亡くなった。

ビートたけしは、「生きてたらとんでもないバッターになったと思う」と振り返っている。

爆笑問題のラジオで秘話

2015年7月21日放送のTBSラジオ系のラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』にて、

ビートたけしが漫才に行き詰まりを感じて、偶然観に行った神宮球場での高校野球で、とんねるず・石橋貴明と居合わせていたと語っている。(引用元)

田中裕二:この間、たけしさんの記事が、スポーツ新聞に載ってて。たけしさんが今度、高校野球の100年記念特番みたいなのをやるって記事が載ってたんですよ。

太田光:うん。

田中裕二:それが、ABC、朝日放送が放送するってことになってて。それにたけしさんが、特番をやるって記事で。そこに内容が書いてて。面白そうだなって思ったから、たけしさんにあった時に、その話をして。

太田光:うん。

田中裕二:「今度、高校野球の特番やるんですね?」「ああ、そうなんだよ」って。そこで、凄い話があってね。それは、新聞にも書いてあったから、言って良いと思うんだけど…オンエアはまだ8月なんで、ちょっと先なんだけど。

太田光:うん。

田中裕二:たけしさんが、歴代の気になる高校球児について話をしてて。3人くらい挙げてるんですよ。

太田光:江川?

田中裕二:江川とか、清原とか、そういう人じゃないんですよ。言ってみれば、あまり知らない人。

太田光:ああ、たけしさんは詳しいだろうしなぁ。

田中裕二:それで、たけしさんが1人挙げてる人でね、早実の1年生で、王貞治2世って言われた選手がいるんですって。

太田光:いつ?

田中裕二:1978年。

太田光:78年か…

田中裕二:俺らが中1とかで。

太田光:え?早実?荒木大輔…

田中裕二:荒木は、80年の時の1年生。だから、荒木の2個上くらい。荒木はまだ入学する前ですよ。

太田光:ああ。

田中裕二:王2世って言われた、阿部(淳一)選手をたけしさんは挙げていて。その人はなんで挙げたかっていうと、東京の神宮球場で行われた地方予選(東東京大会決勝)で。

太田光:地方予選か。

田中裕二:当時、まだ漫才ブーム前夜ですよ。これから漫才ブームがくるって時で。

太田光:そうだね、78年って言ったらね。

田中裕二:80年が漫才ブームですから。

太田光:直前だね。

田中裕二:だから、まだ全然世の中の人は、ビートたけしも知らない、ツービートもそんなに知らない。

太田光:B&Bも知らない。

田中裕二:そう。その時に、たけしさんはすでに30歳頃で、漫才に行き詰まってたんだって。

太田光:ああ。

田中裕二:漫才ブームの前にね。もう、イヤになっちゃったんだって。

太田光:うん。

田中裕二:イヤになって、仕事をサボって神宮球場に行って。そこでちょうど、高校野球の地区大会をやってて、決勝だったんだって。それでフラっと野球でも観ようって思って。

太田光:うん。

田中裕二:そしたら、その試合で、早実だとか帝京のどっちを応援するとかはなかったんだけどね。それをたけしさんが観てたら、途中で1年生の代打が出てきて。

太田光:代打・阿部?

田中裕二:そう。それが阿部選手で。出てきて、3ランホームランを打ったんだって。その打球が凄いんだって。弾丸ライナーみたいで。それをたけしさんが観てビックリして、「これは凄い選手が現れた」と。

太田光:うん。

田中裕二:その試合は負けちゃったのかも知れなくて、甲子園は行けなかったのかも知れないけど、「来年、再来年はとんでもないことになるな」って思ってて、「そういえば…」って思って、次の年に観たら、早実にその選手の名前がなくて。

太田光:うん。

田中裕二:それで、何年か後にまた思いだして、「どうしたんだ?阿部って凄い選手がいたろ」って言ったら、高1の冬に、交通事故で亡くなってるんだよ。

太田光:ええっ?!

田中裕二:王貞治2世って言われてた選手が、亡くなってるんだよ。それで凄いガッカリして。そんな話を何かの時にしたら、その試合に、同じ球場に帝京側の応援席にいた人がいるんですよ。

太田光:ちょっと待って…

田中裕二:1978年。帝京の応援席で応援していた少年がいるんですよ。

太田光:石橋貴明?

田中裕二:石橋貴明なんだよ。凄くない?なんかもう、ワクワクするんだよね。

太田光:ああ、そう。在校生で?

田中裕二:在校生で。野球部で、先輩が戦ってるのを応援してて。貴明さんは、提供側で応援してたんだよね。タカさんは、2年だったと思うけど。だから、タカさんも絶対に覚えてると思うんだよ、早実の阿部選手。

太田光:ああ、そう。それはなんで分かったわけ?

田中裕二:それは、たけしさんが後にそんな話をしてたら、貴明さんが「俺も知ってます」ってなったんじゃないかな。

太田光:へぇ。

田中裕二:「貴明、あの試合にいたんだよ」って。だから、その時の神宮には、たけしさんと貴明さんが、全然立場が違うんだけどさ、いたわけよ。

太田光:たけしさんは、そのホームランを見て、「オイラも、もう一回頑張ろう」って?

田中裕二:それは分からないけどね。

太田光:野球って、そういうことがあるね。

石橋貴明、高校野球への想いを語る(朝日新聞から)

石橋貴明が、高校野球(帝京高校野球部出身)の想いを朝日新聞に語っている。

以下抜粋する。

「帝京の秘密兵器」忘れられぬ濃密な時間 石橋貴明

2018年6月1日 朝日新聞

第100回大会だと聞くと、「ああ、俺が神宮球場で悔し涙を流してから39年経ったか」と。球児たちは参加した年の回を覚えていて、何年経ったとすぐ計算できるでしょうね。

帝京高(東京)では控え投手で、ベンチ入りはできませんでした。2年のとき、選抜大会で甲子園練習を手伝うためグラウンドに立ちました。ベンチ前で土をそっとポケットに忍ばせました。

野球じゃなくて応援では「帝京に石橋あり」と言われて、「帝京の最後の秘密兵器」が秘密兵器のまま終わったんです。

東京で1番練習していたと思う。暑い中、よく水も飲まずに練習したな。水を飲んじゃダメっていう時代でしたから。

3年でベンチに入れないと分かってからは、ただふてくされていました。生徒手帳に「引退まであと何日」と書いて。補欠はつらいですよ。後輩の練習の手伝いばかりでしたから。

高校野球をやり切った感は全くなかった。

だけど、1979年の第61回大会の4回戦、最後になった神宮球場の試合でスコアボードが何も書いてない状態に戻っていくのを見ながら、すごく涙が出た。「何でもう少し真面目にやらなかったんだろう」って。

高校卒業後、一度はホテルに就職しましたが、芸能界デビュー後に母校が全国制覇しました。「帝京の野球部出身です」と誇って言えるのは、後輩たちのおかげです。

甲子園で優勝するようになったけど、毎年出るわけでもないし、レギュラーになれない3年生もいる。帝京野球部全員でつないできた歴史。誰が偉いとかではなく、部員全員の財産だと思います。

高校野球とは、忘れられない「濃い時間」ですね。あの時間がなかったら、中途半端な人生を送っていたと思う。

補欠でも辞めないで続けた、というのが自信になったし、その後の人生に役立ちました。

球児の皆さんには、好きで入った部なら色々な事情があると思うけど3年間やり遂げてほしい。ただ、無理はしないように。

自分がいつゲームセットにするか、自分で決めることだから。大事な10代のときにケガをしたら取り返しがつかない。痛いときは痛いというべき。指導者の方にはたくさんナイスゲームを見せてもらいたいですね。

いま、野球の競技人口が減っている。高校野球も以前は加盟校が4千校を超えていたのに、少子化とはいえサッカーに逆転されましたよね。サッカーは小学1年生でも簡単にできる。頭と足でゴールに入れるんだよと言えばいい。

でも、野球はルールが難しいし、バットを振る体力もまだない。サッカーは人数を少なくしてもできて、小さな子同士でもできるから、みんなサッカーに行っちゃう。

今は公園とかでキャッチボールしちゃいけないとか、特に都会では野球ができる場所がない。ボールやバットに触れる機会を作っていかないと他の競技に子どもを取られてしまいます。

プロやアマ、大学、小中高。野球に携わる全ての世代が話し合う時期に来ていると思う。高校野球という素晴らしい文化が本当になくなってしまうかもしれない。

野球の未来について考えるため、まずはみんなで集まりましょうよ。(聞き手・辻健治)

早稲田実業・阿部淳一のスリーランのシーン

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