【特集ページ】折尾愛真 松井義弥(巨人ドラフト5位) 高校通算40本塁打の九州ゴジラ

折尾愛真 松井義弥、巨人5位指名

折尾愛真 松井義弥は、巨人・ドラフト5位指名。契約金3500万円、年俸500万円。背番号は「65」となる。いよいよプロ野球生活を歩みだす。

松井義弥は、3月5日、“プロ初本塁打”を放つ活躍。3軍の玉川大学戦(G球場)に「6番・三塁」で先発出場。2回無死、今秋ドラフト候補・山田綾人投手(桐光学園高)のチェンジアップをとらえホームランとした。

【巨人 入団選手の背番号】
1位 高橋優貴投手 12
2位 増田陸内野手 61
3位 直江大輔投手 54
4位 横川凱投手 62
5位 松井義弥内野手 65
6位 戸郷翔征投手 68
育成1位 山下航汰外野手 009
育成2位 平井快青投手 012
育成3位 沼田翔平投手 016
育成4位 黒田響生内野手 021

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松井、第二のゴジラ部屋目指す

巨人のドラフト5位・松井義弥が1月8日、入寮した。持参したのは原監督の直筆サインボール。

ゴジラ松井秀喜は、部屋の畳がすり切れるほど素振りを行う努力で結果を残し、その部屋は「松井部屋」と称された。

同姓である「九州のゴジラ」はこの日、同部屋で実際に素振りを体験し「自分も、そういった(部屋が)モデルにされるような選手になりたい」と自らの部屋を“出世部屋”にすることを誓った。

契約金3500万円、年俸500万円で仮契約

巨人からドラフト5位で指名された折尾愛真=松井義弥が11月17日、契約金3500万円、年俸500万円で仮契約した。背番号は「65」に決定。

松井は「65番に決まった理由を聞いてうれしく思います。今は巨人の松井と言ったら松井秀喜さんですが、巨人の松井といったら自分のことをイメージしてもらえるような選手になりたいです」とコメントした。

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折尾愛真 松井義弥、巨人がドラフト5位指名!

191センチ、89キロと体格に恵まれ、高校生離れしたスイングスピードで高校通算40本塁打をたたき出した男・松井。体格に加えて左打者であることからも通称「ゴジラ」と呼ばれる男・松井義弥。

中学時代には軟式球をかっ飛ばし、70メートル先の校舎の窓を破壊するなど怪力伝説を持つ。プロテイン代わりにバナナと牛乳を摂取し、1日7合の米を詰め込んで体を大きくしてきた。

「名字が同じでゴジラという名前をつけてもらって、縁があるなと思います。やってやるぞという気持ちです」とコメント。

「自分は長打が売り。一度しか取れない新人王に挑戦したい。岡本さんを超えるような選手になりたい。」

<巨人>ドラフト結果一覧
◆支配下
1位 高橋 優貴(八戸学院大)投手
2位 増田 陸(明秀日立高)内野手
3位 直江 大輔(松商学園高)投手
4位 横川 凱(大阪桐蔭高)投手
5位 松井 義弥(折尾愛真高)内野手
6位 戸郷 翔征(聖心ウルスラ高)投手
以降 選択終了
◆育成
1位 山下 航汰(健大高崎高)内野手
2位 平井 快晴(岐阜第一高)投手
3位 沼田 翔平(旭川大高)投手
4位 黒田 響生(敦賀気比高)内野手

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松井義弥は「九州のゴジラ」の異名を持つ

190センチ、89キロの体格に、俊足と強肩を兼ねる。松井秀喜とは、共通点が多い。名字はもちろん、右投げ左打ちのスラッガーで、本家も高校時代の守備位置は三塁だった。

4000グラムで生まれ、中学入学時には身長はすでに180センチ。軟球で、ホームから70メートル離れた場所にある3階建ての校舎の上を越える本塁打を放ったという伝説を持つ。

松井義弥に対するスカウトの評価

巨人・武田西日本統括スカウトが「スケールが大きい選手。柳田、糸井ばりの身体能力を持っている」とコメント。オリックス・古屋スカウトが「体が大きい割に、コンパクトなスイングができる。走力も含めていい選手」と評価。

松井義弥のプロフィール・出身

2000年6月18日生まれ。福岡県田川市出身。金川小1年時に「香小エルテックス」で軟式野球を始める。金川中の軟式野球部では投手と捕手。

折尾愛真高では1年春からベンチ入りし、夏は4番遊撃で出場。今夏は3番三塁で出場し、同校初の甲子園出場に貢献。1回戦で日大三(東京)に敗れた。191センチ、89キロ。右投げ左打ち。

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野元涼は「ノモラ」、福岡大会で6本塁打を記録

冬、体づくりに重点を置き、筋トレに加えて1日7合の白米を食べ続けた。ひと冬越えて、体重は68キロから一時92キロまで超増量した。福岡市内の実家に戻ると仰天されるほどの成長を遂げるのに比例して、飛距離も急激に伸びた。地方大会では6発のホームランを記録。

折尾愛真は元女子高、監督は三重・明野高校出身

1935年に創立された私立校。長く女子校だったが、2002年に現校名となり、03年から共学化。野球部は夏の福岡大会には05年から参加し、14年の8強が最高成績。

女子校から共学になったのを機に、2004年に野球部を創部。当初は、部員は女子1人を含む5人だった。野球をするグラウンドはなく、その公園でキャッチボールから始めた。「一番うまいのがその女子だと、見ている小学生にいわれたりして……」あれから15年、ついに夏の甲子園に現れる。

奥野博之監督は、三重・明野高校で甲子園に3度、選手として出場している。